「ここがテンパランス様の事務所か……。世界で唯一の、女性奇跡使い様……」
大きな洋館の玄関扉の前で、一人の少年が、その屋敷の大きさと、扉の奥から漂ってくる威圧感に、すくみ上っていた。
まっすぐな黒髪を坊ちゃん刈りに切りそろえた、東洋風の平面的な顔立ちの少年であった。
しかし、先方には既に連絡をしているし、ここまで来てしまったのだ、いまさら引き返すわけにはいかない。
意を決して少年がノッカーに手をかけようとすると……。
「テンパランス様!助けてください!!」
少年を押しのけて三人の男女が押しかけ、激しくノッカーを打ち鳴らし、ドアを|強《したた》か叩いた。
すると、扉が軋む音を立てながら、|僅《わず》かに開いた。
奥から顔をのぞかせたのは、栗色の前髪を上げ額を露出した、人形のように整った顔の冷たい印象の女性だった。
「何事です」
すると駆け込んできた男女は口々に緊急事態を訴えた。
「この近くの道路で玉突き衝突事故が起きたんです!救急車なんか待ってたら助からない!!怪我人が大勢いて、車も炎上してる!!助けてください!」
冷たい印象の女性は大きく目を見開くと、「少し待っていなさい」といって奥に引っ込み、一人の男性を連れて飛び出してきた。
「あなたたちは車で?」
女性が男女に問うと、男女は、
「すぐ近くだから走ってきました!」
と答えたため、女性は玄関前に停めていた車に飛び乗った。
「車を出します。乗って!」
女性の弟子と思しき金髪の男性が助手席に乗り、駆け込んできた男女は後部座席に乗り込んだ。そして猛スピードで車は走り出した。
一連の騒ぎを黙って見送ることしかできなかった少年は、あっけにとられて車を見送り、しばし呆然と佇んでいた。
すると、玄関扉がゆっくりと開き、「大丈夫かしら……」と呟く、若い女性が出てきた。先ほどの女性の車が消えた方向を見つめ、ふう、と溜息をつく。と、
「あら?貴方は行かなくてよかったの?」
若い女性が少年に問いかけた。
「え、あ、貴女は……?」
少年が誰何すると、若い女性……というよりは幼さの残る少女という方が正しいような、彼女は腰に手を当てて問い返した。
「あら、レディに名前を訊くなら、まず自分から名乗るのが礼儀でしょ?」
それもそうだ。少年は慌てて名乗った。
「そ、そうですね!すみません!僕はケフィ・スクート。16歳です!」
すると、少女も名乗った。
「あら、じゃあ同い年なんだ?あたしはイオナ。ただのイオナよ。このお屋敷のメイド」
栗色の癖っ毛を肩のあたりで切り揃えた、大きな目の少女だったが、メイドという割には露出の高い、キャミソールにミニスカート姿だった。ずいぶんラフなものである。
「あの、僕、テンパランス様の弟子になりたくて、先日ご連絡したんですけど……」
ケフィがもごもと歯切れの悪い言い方で用件を伝えると、イオナは、はたと手を打った。
「ああ、テンパランス様から聞いてるわ。あなただったのね。でも残念ね、さっきテンパランス様は緊急の用事で外出してしまわれたわ。今このお屋敷にいるのはあたしと貴方だけ」
その顛末は見ていたが、そうか。先ほどの冷たい印象の女性がテンパランスなのか。と、ケフィは納得した。
「じゃあ……困りましたね。すみません、出直してきます」
ケフィは大きな荷物のカバンを背負い直して、|踵《きびす》を返そうとした。イオナはその大きな荷物の存在に気づくと、慌てて彼を引き留めた。
「あ!そうか!貴方泊り込みで修行するのよね!じゃあその荷物で出直すの大変でしょう?テンパランス様はすぐ戻るわ。私とお茶でもして待ってない?」
「え、いやあ、そういうわけには……」
ケフィが遠慮すると、イオナは、
「出直すって言ってもあなたその荷物抱えてどこに行くの?ホテルに泊まるの?宿代はある?」
と、現実的なことを聞いてきた。それもそうである。ケフィは実際遠方から遥々ここまでやってきた。ホテルが見つかる保証も無ければ、宿代が手持ちで足りる保証もない。
「そうですね、では、お言葉に甘えます……」
屋敷の客間で、イオナは熱い紅茶を振る舞った。冷めて固くなっていたが、スコーンも用意された。
同い年とはいえ、年頃の女の子と二人っきりでお喋りはなんだか気まずい。
「あなたどこから来たの?」
「ガリントンです」
「えー?あんなとこから来たの?大変だったじゃない。近場の奇跡使いじゃだめだったの?」
「既にお弟子さんがいっぱいで、入れませんでした。テンパランス様なら、お弟子さんが少ないと聞いたし、素晴らしい力をお持ちだというので、それで……」
お喋り好きな女の子は、マシンガンのように矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。ケフィはこの段階でプライバシーも秘密も何も丸裸にされそうだった。
「ふーん、そっかあ……」
質問の雨が止むと、暫し気まずい沈黙が流れる。ケフィは、初対面の女子のこの会話のノリが苦手だった。テンパランスもこんなノリの女性だったら、ここで修行するのは耐えられそうにないかもしれない。
「そうだ、テンパランス様ってどんな方ですか?」
今度はケフィが訊く番だ。
「テンパランス様?うーん、そうねえ。素晴らしい方よ。聡明で、物静かで、落ち着いていらして。奇跡使いってね、ガチガチに厳しい禁欲生活をしなくちゃならないんですって。お酒飲まないとか、お肉食べないとか、恋をしちゃいけないとか。そういうの、全部守っていらっしゃるの。凄いと思うわ」
少年は、それを聞いて、なぜテンパランスが、「テンパランス(節制)」という名を冠しているのか納得した。女性だったら恋をしたいこともあるだろう。女性なりの色んな誘惑も多いはずだ。そういうものに目もくれず、ひたすら神のためだけに生きているという。なんだか、尊敬できそうな気がした。
「そういえば、さっき、男性もテンパランス様についていきましたよね。あの方は誰なんです?」
金髪を短く刈り上げた、青い目の美青年。多分弟子なのだろうとは思うが。
「アルシャイン様ね。テンパランス様の一番弟子で、唯一テンパランス様の元から去らなかった方よ」
「?」
「テンパランス様ね、女性でしょう?他の今までのお弟子さんは、みんなテンパランス様のことが好きになっちゃって、奇跡が使えなくなって破門されちゃったの。他のお弟子さんたちは他の奇跡使いのところに行ったとか、残念な人生を送ってるとか、そんな話を風の噂で聞いたわ」
「なるほど、だから、テンパランス様ほどの有名な奇跡使いの方なのに、お弟子さんが少ないんですね」
ケフィは先ほどのテンパランスの顔を思い出して、自分も惚れてしまいそうだろうか、と考えてみた。
……あの冷たい目に射抜かれたら、惚れそうな予感はしなかった。惚れるなんて畏れ多い。平伏して顔を上げることもできなそうだ。
そんな話をしていると、車のエンジン音が聞こえて、玄関のドアが開いた。
「帰っていらしたわ。いらっしゃい、ケフィ」
イオナがケフィを手招き、玄関へとパタパタと駆けていった。ケフィも後に続き、テンパランスたちを出迎えた。
「お帰りなさい、テンパランス様。事故はどうでした?」
テンパランスと呼ばれた女性は表情一つ変えず答えた。
「なんとか無事に処理したわ。間に合ったみたい」
ふと、テンパランスが見慣れない少年の存在に気づき、ケフィに目を合わせた。イオナは「いっけない!」と、慌ててケフィをテンパランスに紹介した。
「テンパランス様、お客様ですよ。こちらケフィ君。テンパランス様の弟子になりたいっていらっしゃったんですよ。ケフィ君、この方がテンパランス様よ、後ろの方がアルシャイン様」
ケフィは緊張して気を付けの姿勢を取り、できる限り元気に名乗った。
「は、初めまして!先日ご連絡いたしました、ケフィ・スクートです!本日はよろしくお願いします!!」
「そう、貴方が。ようこそ、ケフィ。私が奇跡使いのテンパランスです」
彼女の背後から、アルシャインも名乗った。
「初めまして、ケフィ。僕はテンパランス様の弟子、アルシャインです。よろしく」
お互い名乗り終わると、改めてテンパランスがケフィに向き直った。
「お待たせして御免なさいね。それでは、早速面接といたしましょう」
ケフィは先ほどの客間とは別の、テンパランス専用の応接室に招かれた。広い屋敷である。奇跡使いとはそんなに儲かるものなのだろうか。宗教法人だから実は儲かるのかもしれない。
などと思いながら、勧められたソファーに座ると、いつの間にかアルシャインも同席していて、テンパランスの横に座った。見た目はいいカップルに見えるのだが、奇跡使いということは、やはり何もないのだろう。
「履歴書は持ってきてくれた?」
テンパランスに言われ、ケフィはバッグから履歴書を取り出し、提出した。
二人がざっと書類に目を通すと、テンパランスが口を開いた。
「今まで一度でも奇跡を使ったことはある?奇跡として成立した力でなくてもいいわ。不思議な力が使えたなんていう経験は?」
「あ、あります!」
「ふうん。その時のことを教えてくれる?」
ケフィは一瞬苦い顔をしたが、意を決して語り始めた。
今から5~6年前だろうか。学校でいじめられていたケフィは、ある雨の日、いじめっ子に、泥だらけになった公園に転がされた。そして、口に泥を詰め込まれ、苦しみもがく姿を指をさして笑われたのだ。泥を吐き出してケフィができた抵抗は、「死ねばいいのに」と小さく毒づくことだけだった。
小さな声だ。土砂降りの雨で声はかき消され、きっと悪ガキたちの耳には入らなかっただろう。しかし次の瞬間、突然天から雷が落ちてきて、悪ガキの大将は雷に打たれて黒こげになって死んだ。
偶然だと思った。思いたかった。少年は、奇跡が起きたと思った。偶然、奇跡が起きて、自分を助けてくれたんだ。まさか自分がやったことだとは思えなかった。否、半分は自分の力だと思えた。半分、偶然の奇跡だと思ったのは、自分が人殺しと呼ばれたくなかったからかもしれない。
しかしつい最近、自分がやったとしか思えないようなことが起きた。
観光で訪れた公園で、母がモンスターに襲われたのだ。
林の陰から、大きな口に夥しい牙を生やした化物が現れ、ケフィに向かって突進してきた。母はそれを庇って、モンスターに食われた。ケフィはその衝撃的なシーンに、無意識に「神様、お母さんを助けて!」と願った。すると、化物は母に咬みついた顎をあんぐりと開け、途端爆裂した。
母は一命をとりとめた。しかし、脊髄が損傷し、車椅子生活になってしまった。
ケフィは自分には奇跡の力があると確信した。だから、母の体の麻痺も治してやりたいと願った。
しかし、以降何を願っても奇跡らしい奇跡は起きなかった。
「だから、僕は、奇跡使いの修業をして、母の体を治してあげなくちゃいけないんです!」
説明しながら、ケフィは涙を流していた。できれば思い出したくない過去。でも、忘れてはいけない過去。
「そう……ふむ……」
テンパランスは相変わらず表情を崩さず、そう相槌を打つだけだった。
代わりにケフィを労わったのはアルシャインだ。
「辛い話をさせてしまったね。でも、奇跡使いや言霊使いは、皆何かしらそんな経験を乗り越えて修行の道に入る。今は語らないが、僕にもあったし、テンパランス様にもあった。君のように未知の力に振り回される者は、少なからずいる。君は孤独じゃないよ」
ケフィは大粒の涙を絞り出すと、「ありがとうございます」と言って、頭を下げた。
「力の発現が不安定なようね。では、神とのコンタクトの仕方から学びましょうか。大丈夫よ、最初から神の力を使いこなせる人はいないわ。よろしい。あなたの入門を認めましょう。今日からここで生活し、修行しましょう」
「ありがとうございます……よろしくお願いします!!」
斯くして、ケフィの物語は幕を開けたのである。
大きな洋館の玄関扉の前で、一人の少年が、その屋敷の大きさと、扉の奥から漂ってくる威圧感に、すくみ上っていた。
まっすぐな黒髪を坊ちゃん刈りに切りそろえた、東洋風の平面的な顔立ちの少年であった。
しかし、先方には既に連絡をしているし、ここまで来てしまったのだ、いまさら引き返すわけにはいかない。
意を決して少年がノッカーに手をかけようとすると……。
「テンパランス様!助けてください!!」
少年を押しのけて三人の男女が押しかけ、激しくノッカーを打ち鳴らし、ドアを|強《したた》か叩いた。
すると、扉が軋む音を立てながら、|僅《わず》かに開いた。
奥から顔をのぞかせたのは、栗色の前髪を上げ額を露出した、人形のように整った顔の冷たい印象の女性だった。
「何事です」
すると駆け込んできた男女は口々に緊急事態を訴えた。
「この近くの道路で玉突き衝突事故が起きたんです!救急車なんか待ってたら助からない!!怪我人が大勢いて、車も炎上してる!!助けてください!」
冷たい印象の女性は大きく目を見開くと、「少し待っていなさい」といって奥に引っ込み、一人の男性を連れて飛び出してきた。
「あなたたちは車で?」
女性が男女に問うと、男女は、
「すぐ近くだから走ってきました!」
と答えたため、女性は玄関前に停めていた車に飛び乗った。
「車を出します。乗って!」
女性の弟子と思しき金髪の男性が助手席に乗り、駆け込んできた男女は後部座席に乗り込んだ。そして猛スピードで車は走り出した。
一連の騒ぎを黙って見送ることしかできなかった少年は、あっけにとられて車を見送り、しばし呆然と佇んでいた。
すると、玄関扉がゆっくりと開き、「大丈夫かしら……」と呟く、若い女性が出てきた。先ほどの女性の車が消えた方向を見つめ、ふう、と溜息をつく。と、
「あら?貴方は行かなくてよかったの?」
若い女性が少年に問いかけた。
「え、あ、貴女は……?」
少年が誰何すると、若い女性……というよりは幼さの残る少女という方が正しいような、彼女は腰に手を当てて問い返した。
「あら、レディに名前を訊くなら、まず自分から名乗るのが礼儀でしょ?」
それもそうだ。少年は慌てて名乗った。
「そ、そうですね!すみません!僕はケフィ・スクート。16歳です!」
すると、少女も名乗った。
「あら、じゃあ同い年なんだ?あたしはイオナ。ただのイオナよ。このお屋敷のメイド」
栗色の癖っ毛を肩のあたりで切り揃えた、大きな目の少女だったが、メイドという割には露出の高い、キャミソールにミニスカート姿だった。ずいぶんラフなものである。
「あの、僕、テンパランス様の弟子になりたくて、先日ご連絡したんですけど……」
ケフィがもごもと歯切れの悪い言い方で用件を伝えると、イオナは、はたと手を打った。
「ああ、テンパランス様から聞いてるわ。あなただったのね。でも残念ね、さっきテンパランス様は緊急の用事で外出してしまわれたわ。今このお屋敷にいるのはあたしと貴方だけ」
その顛末は見ていたが、そうか。先ほどの冷たい印象の女性がテンパランスなのか。と、ケフィは納得した。
「じゃあ……困りましたね。すみません、出直してきます」
ケフィは大きな荷物のカバンを背負い直して、|踵《きびす》を返そうとした。イオナはその大きな荷物の存在に気づくと、慌てて彼を引き留めた。
「あ!そうか!貴方泊り込みで修行するのよね!じゃあその荷物で出直すの大変でしょう?テンパランス様はすぐ戻るわ。私とお茶でもして待ってない?」
「え、いやあ、そういうわけには……」
ケフィが遠慮すると、イオナは、
「出直すって言ってもあなたその荷物抱えてどこに行くの?ホテルに泊まるの?宿代はある?」
と、現実的なことを聞いてきた。それもそうである。ケフィは実際遠方から遥々ここまでやってきた。ホテルが見つかる保証も無ければ、宿代が手持ちで足りる保証もない。
「そうですね、では、お言葉に甘えます……」
屋敷の客間で、イオナは熱い紅茶を振る舞った。冷めて固くなっていたが、スコーンも用意された。
同い年とはいえ、年頃の女の子と二人っきりでお喋りはなんだか気まずい。
「あなたどこから来たの?」
「ガリントンです」
「えー?あんなとこから来たの?大変だったじゃない。近場の奇跡使いじゃだめだったの?」
「既にお弟子さんがいっぱいで、入れませんでした。テンパランス様なら、お弟子さんが少ないと聞いたし、素晴らしい力をお持ちだというので、それで……」
お喋り好きな女の子は、マシンガンのように矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。ケフィはこの段階でプライバシーも秘密も何も丸裸にされそうだった。
「ふーん、そっかあ……」
質問の雨が止むと、暫し気まずい沈黙が流れる。ケフィは、初対面の女子のこの会話のノリが苦手だった。テンパランスもこんなノリの女性だったら、ここで修行するのは耐えられそうにないかもしれない。
「そうだ、テンパランス様ってどんな方ですか?」
今度はケフィが訊く番だ。
「テンパランス様?うーん、そうねえ。素晴らしい方よ。聡明で、物静かで、落ち着いていらして。奇跡使いってね、ガチガチに厳しい禁欲生活をしなくちゃならないんですって。お酒飲まないとか、お肉食べないとか、恋をしちゃいけないとか。そういうの、全部守っていらっしゃるの。凄いと思うわ」
少年は、それを聞いて、なぜテンパランスが、「テンパランス(節制)」という名を冠しているのか納得した。女性だったら恋をしたいこともあるだろう。女性なりの色んな誘惑も多いはずだ。そういうものに目もくれず、ひたすら神のためだけに生きているという。なんだか、尊敬できそうな気がした。
「そういえば、さっき、男性もテンパランス様についていきましたよね。あの方は誰なんです?」
金髪を短く刈り上げた、青い目の美青年。多分弟子なのだろうとは思うが。
「アルシャイン様ね。テンパランス様の一番弟子で、唯一テンパランス様の元から去らなかった方よ」
「?」
「テンパランス様ね、女性でしょう?他の今までのお弟子さんは、みんなテンパランス様のことが好きになっちゃって、奇跡が使えなくなって破門されちゃったの。他のお弟子さんたちは他の奇跡使いのところに行ったとか、残念な人生を送ってるとか、そんな話を風の噂で聞いたわ」
「なるほど、だから、テンパランス様ほどの有名な奇跡使いの方なのに、お弟子さんが少ないんですね」
ケフィは先ほどのテンパランスの顔を思い出して、自分も惚れてしまいそうだろうか、と考えてみた。
……あの冷たい目に射抜かれたら、惚れそうな予感はしなかった。惚れるなんて畏れ多い。平伏して顔を上げることもできなそうだ。
そんな話をしていると、車のエンジン音が聞こえて、玄関のドアが開いた。
「帰っていらしたわ。いらっしゃい、ケフィ」
イオナがケフィを手招き、玄関へとパタパタと駆けていった。ケフィも後に続き、テンパランスたちを出迎えた。
「お帰りなさい、テンパランス様。事故はどうでした?」
テンパランスと呼ばれた女性は表情一つ変えず答えた。
「なんとか無事に処理したわ。間に合ったみたい」
ふと、テンパランスが見慣れない少年の存在に気づき、ケフィに目を合わせた。イオナは「いっけない!」と、慌ててケフィをテンパランスに紹介した。
「テンパランス様、お客様ですよ。こちらケフィ君。テンパランス様の弟子になりたいっていらっしゃったんですよ。ケフィ君、この方がテンパランス様よ、後ろの方がアルシャイン様」
ケフィは緊張して気を付けの姿勢を取り、できる限り元気に名乗った。
「は、初めまして!先日ご連絡いたしました、ケフィ・スクートです!本日はよろしくお願いします!!」
「そう、貴方が。ようこそ、ケフィ。私が奇跡使いのテンパランスです」
彼女の背後から、アルシャインも名乗った。
「初めまして、ケフィ。僕はテンパランス様の弟子、アルシャインです。よろしく」
お互い名乗り終わると、改めてテンパランスがケフィに向き直った。
「お待たせして御免なさいね。それでは、早速面接といたしましょう」
ケフィは先ほどの客間とは別の、テンパランス専用の応接室に招かれた。広い屋敷である。奇跡使いとはそんなに儲かるものなのだろうか。宗教法人だから実は儲かるのかもしれない。
などと思いながら、勧められたソファーに座ると、いつの間にかアルシャインも同席していて、テンパランスの横に座った。見た目はいいカップルに見えるのだが、奇跡使いということは、やはり何もないのだろう。
「履歴書は持ってきてくれた?」
テンパランスに言われ、ケフィはバッグから履歴書を取り出し、提出した。
二人がざっと書類に目を通すと、テンパランスが口を開いた。
「今まで一度でも奇跡を使ったことはある?奇跡として成立した力でなくてもいいわ。不思議な力が使えたなんていう経験は?」
「あ、あります!」
「ふうん。その時のことを教えてくれる?」
ケフィは一瞬苦い顔をしたが、意を決して語り始めた。
今から5~6年前だろうか。学校でいじめられていたケフィは、ある雨の日、いじめっ子に、泥だらけになった公園に転がされた。そして、口に泥を詰め込まれ、苦しみもがく姿を指をさして笑われたのだ。泥を吐き出してケフィができた抵抗は、「死ねばいいのに」と小さく毒づくことだけだった。
小さな声だ。土砂降りの雨で声はかき消され、きっと悪ガキたちの耳には入らなかっただろう。しかし次の瞬間、突然天から雷が落ちてきて、悪ガキの大将は雷に打たれて黒こげになって死んだ。
偶然だと思った。思いたかった。少年は、奇跡が起きたと思った。偶然、奇跡が起きて、自分を助けてくれたんだ。まさか自分がやったことだとは思えなかった。否、半分は自分の力だと思えた。半分、偶然の奇跡だと思ったのは、自分が人殺しと呼ばれたくなかったからかもしれない。
しかしつい最近、自分がやったとしか思えないようなことが起きた。
観光で訪れた公園で、母がモンスターに襲われたのだ。
林の陰から、大きな口に夥しい牙を生やした化物が現れ、ケフィに向かって突進してきた。母はそれを庇って、モンスターに食われた。ケフィはその衝撃的なシーンに、無意識に「神様、お母さんを助けて!」と願った。すると、化物は母に咬みついた顎をあんぐりと開け、途端爆裂した。
母は一命をとりとめた。しかし、脊髄が損傷し、車椅子生活になってしまった。
ケフィは自分には奇跡の力があると確信した。だから、母の体の麻痺も治してやりたいと願った。
しかし、以降何を願っても奇跡らしい奇跡は起きなかった。
「だから、僕は、奇跡使いの修業をして、母の体を治してあげなくちゃいけないんです!」
説明しながら、ケフィは涙を流していた。できれば思い出したくない過去。でも、忘れてはいけない過去。
「そう……ふむ……」
テンパランスは相変わらず表情を崩さず、そう相槌を打つだけだった。
代わりにケフィを労わったのはアルシャインだ。
「辛い話をさせてしまったね。でも、奇跡使いや言霊使いは、皆何かしらそんな経験を乗り越えて修行の道に入る。今は語らないが、僕にもあったし、テンパランス様にもあった。君のように未知の力に振り回される者は、少なからずいる。君は孤独じゃないよ」
ケフィは大粒の涙を絞り出すと、「ありがとうございます」と言って、頭を下げた。
「力の発現が不安定なようね。では、神とのコンタクトの仕方から学びましょうか。大丈夫よ、最初から神の力を使いこなせる人はいないわ。よろしい。あなたの入門を認めましょう。今日からここで生活し、修行しましょう」
「ありがとうございます……よろしくお願いします!!」
斯くして、ケフィの物語は幕を開けたのである。