第二十二話 奇跡使いポール・エスキース



2025-02-06 20:17:46
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 じっと己が手を見つめ、あの柔らかな感触を思い出す。
「綺麗な人だったな……」
 奇跡使い対言霊使いナンバーワン決定戦の決勝戦で、かの有名な世界唯一の女奇跡使い・テンパランスに出会った。
 奇跡使いジャッジメントの弟子・ポール・エスキースは、あの日から心を捕らえて離さないテンパランスのことを想い続けていた。
 ポールは5人兄弟の5男。つまり、男だらけの兄弟の中育った。母は幼い頃に父と離婚し出ていった。父と5人の兄弟。男だらけの家庭で、中学は武道の専門教育を受けられる特殊な男子校だった。女性らしい女性と会話したのは小学校以来だ。
 テンパランスから仄かに香った甘い匂いが忘れられない。女性というのは、あんなにいい匂いがするものなのか。
 修業が終わり、自室であの時握ったあの手の感触を何度も反芻する。
 細くて、すべすべしていて、ひんやりしていて、しっとりしていて、柔らかい。
「うっ……痛い、痛たたたたたた……」
 ポールの股間の彼自身が窮屈だと悲鳴を上げる。固く膨張したそれは、彼自身の薄い皮を破かんばかりに下着の中で己が存在を主張する。
 ポールはズボンも下着も脱ぎ捨て、それを開放した。しかし、熱をもってミシミシと痛む彼自身の憤りは収まらない。
「耐えなくちゃ……。罰が下る。罰が下ったら師匠はお許しにならない」
 はあはあと荒く息をついて、興奮が収まるのを待つ。しかし、薄皮1枚で張り詰めたそれは敏感で。エプロンの衣擦れにも感じてしまう。
「駄目だ……。ああ、テンパランス様……!」
 ポールは禁忌を犯す覚悟をし、そそり立つ己に手を伸ばした。

 翌朝、ポールは左頬に切り傷をつけて食堂にやってきた。
「ポール、お前……」
「やっちゃったか……知らねえぞ」
 兄弟子たちは彼が何をしたかすぐに察したようだ。大体夜中起こす禁は悪食か手淫かと相場が決まっている。
 当然左頬の傷を見止めたジャッジメントは顔を紅潮させて恫喝した。
「ポール!お前何をした!」
「言いたくありません」
「言えないようなことをしたのか」
 まだ若いポールの心に、ほんの少し反抗心が芽生えた。こんな若者が今まで禁らしい禁を犯さず生きてきたのだ。健康な青年にとって自然なことではないか。何が悪いというのか。ポールは小さく「抜きました」と口の中で言った。
「何?もう一度言ってみろ」
「……抜きました!」
 バシッ!!
 ジャッジメントは傷ついている左頬を思い切り引っ叩いた。衝撃で床に倒れ込むポール。
「いってえ……。何も傷の上から……」
「色欲は最も犯しやすい禁だといつも厳しく指導してきただろう!お前は大丈夫だと思っていたのに!」
 「お前は大丈夫」という言葉にポールの心が刺激された。まるでこの僕が不能みたいな言い方だな。
「何も傷の上から殴ることないじゃないですか!!僕だってまだ若いんです!むしろ今まで戒律を守っていたことを褒められないんですか?!」
「お前には期待して目をかけていたのに、情けないと言っているのだ!」
 テンパランスの優しそうな美しい顔が脳裏をちらつく。
「僕にだってそういう日があります!」
「もういい、傷が治るまでお前は雑用だ。屋敷をピカピカになるまで磨け」
 今まで禁を犯したことがなかったポールにとって、禁を犯して雑用を強いられている兄弟子は軽蔑すべきものだった。そんな恥ずかしい真似ができるものか。
「破門してください。僕は出ていきます」
「なんだと?」
「僕は禁を犯したんです、放っておいてください!」
 ポールは食堂を飛び出し、自室の荷物をあらかた必要な分だけバッグに詰め込み、道場を飛び出した。こんなところでやっていられるか。戒律戒律ばかりで気が狂いそうだ。
 もっと緩い道場で一人前として実力を認めてくれるところはないか。
 ポールは僅かな所持金でできるだけ遠くに行こうとした。とりあえず電車で終点まで行ってみるか。最寄り駅の路線図からできるだけ長い路線を選び、切符を買って電車に乗り込んだ。

 意図的に選んだ町ではなかった。しかし、辿り着いた街の公園で、左頬の傷のかさぶたを剥がしていると、若い少女と共に買い物袋を両手に下げたテンパランスに出会ってしまった。まさか想い人のもとにたどり着いてしまうだなんて。これは運命か。
「あ、あの入れ墨……この前の大会の時に会いませんでしたっけ?」
「ジャッジメント様のお弟子さんだわ。こんなところでどうしたのかしら」
 二人が近づいてくる。ポールは後ろめたさと切なさに心を掻き乱されて、逃げ出そうとした。しかし、
「ねえ、あなた、もしかしてジャッジメント様のお弟子さん?」
 呼び止められて、逃げ出せなかった。
「は……はい……。ポール・エスキースです。先日はどうも」
「ジャッジメント様の道場ってここからだいぶ遠いでしょう。どうしてこんなところにいるの?里帰り?」
 ポールは黙り込んだ。何と言い訳すればいいだろう。里帰りといっても帰る家はここからさらに遠い。ジャッジメントの道場の方角へ戻り、そこからまた更に終点まで行かなければならない。そこまで帰る旅費はなかった。無計画に飛び出してきてしまったが、行く宛はなかった。
 複雑な顔をして黙り込むポールの様子を見て、テンパランスが何かを察した。
「その荷物、何か理由がありそうね。どう?うちにいらっしゃい。訳を聞きましょう」
「良いんですか……?」
「何か、あったんでしょう」
「すみません。少し、ご厄介になってもいいでしょうか」
 「状況次第ね」とテンパランスは念を押した。誰でも迎え入れられるほど優しくはない。
「分かりました……」
 ポールは荷物を抱えると、イオナとテンパランスの後についていった。

 奇跡使いの道場に二人も女性がいるという状況に、女性に対する免疫のないポールは戸惑いを覚えた。屋敷内もどこからともなく花のような香りが鼻腔をくすぐる。汗臭く雄の香りに満ちていたジャッジメントの道場とは大違いだ。
「入って。とりあえず応接室に来て。イオナ、お茶の用意を」
「はい」
「し、失礼します」
 応接室には瑞々しい花が活けられていて、馨しい香りに包まれていた。憧れのテンパランスの屋敷。眩暈がするほどの幸福に包まれていたポールだったが、その夢心地を引き裂く邪魔者が現れた。テンパランスの右腕・スター・アルシャインだ。イオナと一緒に茶器とお湯を運び、テンパランスの応接室に入ってくる。
「やあ、久しぶりだね。今日はどうしたんだい?」
「こ、……こんにちは」
 ポールは思わずアルシャインを睨んだ。なぜこいつが来るのか。テンパランスと二人で話せると思っていたのに。
「さあ、状況を教えてくれる?」
 ポールは自分が今まで如何に禁を破ることなく修行に打ち込んできたのかを語った。入門して二年。実力はトップクラス。誰も先日の大会のメンバーとして選抜されることに異論を唱えなかった。
 しかし、本当の理由はどうしても言えなかった。言えるわけがない。テンパランスとアルシャインとイオナがそろっているこの状況で、何もかも打ち明けることはできない。
「獣の肉を買って食べてしまいました。それで罰が下りました。翌朝、師匠に殴られました。思わず、飛び出してきてしまいました。今まで僕は、師匠に殴られたことがなかったので……。ショックで……」
「悪食ね。なら罪も軽かったでしょう。気にすることはないわ。魚が食べられることもあるし、魚卵で罰が下ることもある。牛の肉は罰が下る日もあれば免れる日もある。そう思い詰めないで」
 なんと優しい女性だろう。禁を犯して罰が下ることは奇跡使いの恥なのに、理解を示してくれるなんて。たとえ嘘だとはいえ。
「テンパランス様、今更おめおめ帰れる交通費もありません。僕をここに置いてくれませんか」
「うーん、あの子がどういうかしら?」
 イオナの頭に過ったのは先日暴れに暴れたニコの存在だ。
「そうね。ポール、うちにはちょっと厄介な弟子がいて、力が強い反面人間性に問題のある子がいるの。うちは現在あの子を中心に回っているといっても過言ではないわ。あの子と仲良くやっていけるなら、置いてあげてもいいのだけど」
「厄介な子…?」
 一同は作業場で奇跡の小瓶を作らせているニコのもとへポールを案内した。
「ニコ、今日からこの子うちに置いてもいいかしら?仲良くできる?」
「?」
 ニコは不思議そうな顔をした。ポールにとって、ニコの存在は見覚えがあった。大会で強力な奇跡の力を|揮《ふる》っていた奇跡使いだ。確かに彼を敵に回すと厄介なことになりそうだ。
「初めまして、ニコ。僕はポール。今日からここで働いてもいいかな?」
 しかし、心配をよそに、ニコは「いいよ」と一つ返事で彼を迎え入れた。もしかしたら、先日の一悶着でイオナの愛を独り占めできたことに安心したからかもしれなかった。
「ニコがいいというなら……。良いでしょう。しばらくうちで働いてもらいます。でも、交通費が稼げたらジャッジメント様のところに帰るのよ」

 まるで夢のようだ。夢にまで見たテンパランスの道場での生活。ここの生活が気に入ったら正式にジャッジメントとはおさらばしてやる。
 ポールは懸命に働き、その実力の高さをテンパランス達に示した。
「ニコとも仲良くやってくれるし、ポールが来てくれてよかったですね、テンパランス様」
「そうねえ。かなり仕事は楽になったわねえ」
 しかし、ポールにとって邪魔だったのはアルシャインの存在だ。彼がいつでもテンパランスの影のように彼女に付き従う。テンパランスと二人で話しているときも、どこからともなく彼がやってきて、話に参加してしまう。一方で彼はいつだってテンパランスを独り占めするかのようにいつも一緒にいるのだ。
「邪魔だな……」
 交通費分の仕事をこなした頃、ある朝食卓でジャッジメントのところに帰る話を振られたポールは、「少し考えさせてください」と、結論を保留した。
「帰れるものか。何とかしてこの道場に置いてもらわなければ」
 ポールは、ダイニングキッチンにアルシャインを呼び出した。「相談がある」という口実だったが、ポールの計算では、アルシャインに自ら道場を去らせようというものだった。
「アルシャインさん。ズバリお聞きします。貴方とテンパランス様はどんな関係なんですか?」
「どんな関係?!」
 アルシャインはぎくりとした。自分とテンパランスとの関係。それはただの師匠と弟子の関係……のはずだが。
「僕はテンパランス様の弟子だ。何番目の弟子か分からないけれど、5年以上は一緒にいるよ」
「本当にそれだけなんですか?一度も禁を犯したことはないんですか?」
 アルシャインはまた痛いところを突かれた。一度も?そんな事誓えるわけがない。彼は確かにテンパランスに想いを寄せていて、ひそかに彼女に内緒で禁を犯して罰が下ったことは数知れない。だが、いつも悪食を犯した、酒を飲んだと嘘を重ねてきた。
「どういう……意味だい?」
「あなたを見ていると、まるでテンパランス様に魔手を伸ばそうとしているように見える。それは禁忌では?そんなことで彼女のもとで修業ができるんですか?彼女を支えることができるんですか?」
 アルシャインは自然と厳しい目をしていた。なぜ彼にはこの本心が見抜かれているのか。わざわざポールがここに高い交通費をかけてやってきた理由も怪しいものだ。ひょっとして、魔手を伸ばそうとしているのはポールのほうではないのか?
「僕のことがそう見えるということは、君の方こそテンパランス様に魔手を伸ばそうとしているんじゃないのかい?僕は彼女に手を出したことはない。5年間一度も。しかし、彼女に手を出そうとする沢山の弟子からいつも彼女を守ってきた。君は、彼女に手を出さないと誓えるのか?」
「誓えますね。僕は今まで禁を犯したことが数えるほどしかない。色欲に溺れたこともない。僕はこの道場に来て、ここが気に入りました。ずっとここにいたいと思っている。でも、師匠に悪影響を加えようとする人は排除しなければ」
「僕はそういう人を何人も見てきた。そして彼らは結局破門された。君のような人ほど特にね」
「なら勝負しますか?僕と戦って、どちらがこの道場に必要な人間か、はっきりさせましょうか?」
 アルシャインは、やっとポールの意図を汲み取った。戦いたかったのか。そして、アルシャインのことを疎ましく思って、排除しようと考えたのか。
「良いだろう。だが、そういうことなら僕は手加減するわけにはいかない。君が命を落とす可能性もあるだろう。だが、恨まないでくれ」
 ポールは立ち上がった。
「そっちこそ、死んでから文句言わないでくださいね」

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