街の片隅の古いアパートの一室で、ミルドレッドは書類を捌き、電卓をはじいていた。事務所の経営の帳尻合わせと、新社屋の建築に関する各種手続きなどなど。
先日のベルの暴走事件はケフィの活躍によって解決した。ヴィンディクタエの蓄えた業はケフィのニヒリウムの力によって消滅し、一件は落着したのだが、代わりに屋敷が跡形もなく吹き飛んでしまった。金銭は銀行に預けているため被害は最小限に抑えられたが、別棟の祠以外家財道具も壁も床もライフラインもすべて吹き飛んで更地になってしまった。生活が困難になったミルドレッド達は二手に分かれて事務所再建のために仕事を始めなくてはならなくなった。
まずミルドレッドとガイは近隣で一番安く借りられる小さなアパートに引っ越し、事務作業と仕事の依頼の受付を行う。ケフィ達はアレキサンドライトに頼み込んで彼女の道場に住まわせてもらうことになった。基本的な生活のルールはアレキサンドライトの指導に従い、ミルドレッドが受けた依頼をガイが弟子たちに伝え、出動する。彼女たちはそんな不自由な生活を強いられることになってしまった。
ガイがスーパーで買った食材の袋を携えてアパートに帰ってきた。
「ただいま。ミルドレッド、何か変わったことはあったか?」
「一件依頼が入ったわ。急ぎじゃないから、明日あの子たちに書類持って行って」
「分かった。まあ、とりあえず適当に夕飯作るぜ」
狭いダイニングキッチンで、狭いテーブルを囲み、粗末な食事をとる。こんな生活は独立当初以来だ。あのころと違うのは、今はガイという頼りになる男がいることぐらいか。
「あの業者だめね。壁紙の指定は追加料金とかいうのよ。お風呂のタイルもダサいのしか基本料金で使えないし、指定したらかなり吹っ掛けてきて。他にいい業者知らない?あたしが言霊使いだからって足元見てるのよ。ふざけてるわ」
ガイは何度目かわからないミルドレッドの愚痴に少々うんざりしていた。無理もないのはわかるが、それにしてももう少し明るい話題は無いものか。ミルドレッドはこのアパートで暮らし始めてからずっと眉間にしわを寄せている。生活の一切をガイが支えているが、それにしても四六時中苛立つミルドレッドの相手をするのは神経が磨り減る。
「ミルドレッド、疲れてないか?お前さん、もうずっと仕事と手続きと契約の話ばかりだ。もっと楽しい話題はないのかよ」
「疲れてるわよ!!!!楽しいことなんかある?あるなら持ってきて!」
また今日も気まずいまま二人は寝床に就く。色気のある行為はもうずっとご無沙汰だ。
(まいったなあ。さすがの俺も気が滅入ってきた。いつまでこの暮らしは続くんだよ)
アレキサンドライトの屋敷ではケフィが唯一の男子ということで、彼は女子たちに引っ張りだこで可愛がられていた。
「ケフィ君、この蓋開かなーい。開けて~」
「ケフィ君、これ重ーい。持ってえ~」
「ケフィ君、今日のメイク可愛い?」
ベルはその度わざと彼女たちのそばに近づき、無言の圧力で散らしていた。
「キャ、ベルさん!!ごめんなさい!私は大丈夫です!」
「……」
ベルはケフィと恋人同士になったことで急に自分に自信を持つようになり、ケフィを独占せんと周囲の女たちに目を光らせていた。しかし、むやみに力は行使しない。口にした言葉はすべて言霊として力を持ってしまうベルは、迂闊に呪いの言葉を口にできないので、ただ黙して圧力をかけるのみである。
「ベルさん、助かったよ……。みんな僕に集まってきて疲れてしまうよ」
「男が珍しいんでしょうね。貴方も相手にしたらだめよ」
「断るの苦手だから、ベルさんがいつもそばにいてくれたらいいな」
「……」
ベルはケフィが甘えてくるようになったので、複雑な心境である。頼られて嬉しい反面、もっとしっかりして欲しい気もする。まだ素直にお互い甘え合うには付き合いが浅すぎる。ベルが今まで意固地になっていたことも、彼女が幸せを心から享受できない理由かもしれない。
ケフィをアレキサンドライトの弟子から守るのはベルだけではない。エラとニナも仲間であるケフィを守ろうと目を光らせていた。
「うちのケフィにちょっかい出さないでくれる?!」
「あたし達はあくまでもミルドレッド様の弟子なんだからね!引き抜こうとしないで!」
屋敷を間借りしているだけのエラたちは、アレキサンドライトの弟子達に疎まれていた。中でもストレスで髪が抜けるほど拒否反応を示しているのはクリスチーナである。クリスはミルドレッドの事務所に所属していて、エラとニナに虐められ、事務所から逃げたした過去がある。その憎き敵がまた同じ事務所に来たのだ。激しいPTSDで食事も喉を通らない。
「なんでよりにもよってあの子達がうちに来るの……?許せない……。許せない……。顔も見たくないし声も聞きたくないのに」
エラとニナが屋敷ですれ違うと、また足を掛けられて転ばされるか、毒を吐かれるかと思わず身構えてしまう。クリスはこの事務所に来てから生まれ変わったように明るく活躍していたため、周りの仲間もクリスの異変を心配していた。
「クリス、最近元気ないみたいだけど、大丈夫?あいつらが嫌いなの?」
「ええ、ちょっと苦手かな……。あの子達、めちゃくちゃ性格悪いから睨まれないように気をつけてね☆」
クリスは無理に元気を装ったが、顔色が悪いので、彼女を慕う仲間は気が気ではない。
「クリス、あの子達に昔いじめられたんだって……。あの明るくて可愛いクリスをあんなになるまで虐めるなんてどんな奴らなの?」
「クリス可哀想。あいつら早く出ていかないかな」
それもこれも全てミルドレッドのせいだ。と、クリスは最も恨んでいるミルドレッドを始末しようと考えた。
ミルドレッドの指示で彼女達はこの屋敷に住むことになったのである。群れを潰すなら頭を狙え。
クリスは彼女の取り巻きの男達に声を掛け、ミルドレッドを潰そうと考えた。
「いい加減にしろミルドレッド!毎日毎日愚痴ばっかり!もう沢山だ!付き合い切れねえ!」
「それはこっちのセリフよ!出てって!」
ある日、ついにガイの堪忍袋の緒が切れ、2人は口論になった。切欠は些細なことだ。ミルドレッドが仕事の愚痴をこぼして動作が少々荒くなったことがガイの神経に障ってしまったのだ。大きな原因があったと言うよりは、小さな不満が蓄積して溢れたのだろう。実際、アパート暮らしを初めてからというもの、2人がお互いの愛を確かめたことは1度としてなかった。不満から始まり、不満に終わった。ガイが甲斐甲斐しく世話を焼いたことへの感謝もなかった。無理もない。
ガイは1人になるために飲み屋に出掛けた。いつも通っている馴染みの飲み屋だ。すると、珍しく昔見知った顔を見つけた。かつてミルドレッドの元で修行していたクリスチーナだ。ガイは懐かしくなって声を掛けた。
「よお!久しぶりだなクリス!もう酒が飲める年になったのか?」
「ガイさん!お久しぶりです!私は今ちょうどハタチになりましたの☆」
ガイとクリスはクリスがいなくなってからのこと、アレキサンドライトの屋敷ではみんな仲良くやっているかということなど、積もる話が尽きなかった。
いつの間にか暗く沈んでいたガイの心もほぐれてきた。クリスが明るい性格になってくれてよかった。それは、久しぶりの朗報だった。
と、そこへ、ガラの悪い男が数人背後に立ち、クリスに絡んできた。
「クリス。その男は何だ?」
「あ、あなたたち……」
クリスは一瞬ガイに素早く視線を向けた。男の一人の表情がほんの少し険しくなる。
「クリス、知り合いか?」
ガイも表情を険しくする。クリスはガラの悪い男に利用されているのではないか。
「クリス、お前は俺たちの女だろ、知らない男と口きくんじゃねえ」
男の一人がクリスの襟首をつかんだ。ガイがその手に手をかける。
「クリスはクリスだろ。誰のものでもないだろ。お前らこそ何者だ」
男たちとガイがしばし無言で睨み合った。
クリスは唇を震わせて怯えているかに見えた。