第二十七話 ミルドレッドの絶望



2025-02-06 20:27:32
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 ミルドレッドはしばし呆然とその光景を見つめていた。クリスのことがクリスだとは気づいていない。そんなことは些末なことだった。問題は自分以外の女がガイにレイプしているという現実である。
「……あ、ミルドレッド、これはな、落ち着いて聞いてくれ、これは、ちょっと訳ありなんだ」
 ガイは慌ててクリスを押しのけてズボンを穿く。クリスは、まさかミルドレッド本人と直接対決できるとは思わなかったので、願ったり叶ったりだ。無論こういうケースも想定済みだが、まさかファトゥムの言霊がこうもうまくいくとは。ここで皮肉の一つもお見舞いしようか。
「あらミルドレッド様。こんな夜分にどうなさいました?せっかくイイコトしようと思っていたのに」
「あんた誰よ」
「酷い、お忘れですか?悲しいですわ。あなたの元弟子の”能無しのクリスチーナ”ですわ」
「クリスチーナ……?」
 ようやくミルドレッドの脳が動き出した。あのクリスが、私を二度も裏切るというの?しかもこんな形で?ミルドレッドに沸き起こった感情は、不思議と怒りではなかった。絶望と、惨めさと、衝撃と、深い、深い哀しみ。
 ガイの裏切りと、かつての弟子の二度目の裏切り。考えてみたらここ最近は裏切りばかりだ。ベルには裏切られ、屋敷を破壊された。ケフィがそれを吹き飛ばし、屋敷を更地に変えてしまった。信心深く古霊を信仰する聖職者であるミルドレッドがなぜこうも運命に裏切られ続けなければならないのか。
 考えてみたら汚い仕事も多く手掛けてきた。古霊の力を悪用し、罪もない人を呪い続けてきた。それが天罰なのか。全部自分の行いが悪かったのか。これが業か。
「何よ、みんなしてあたしを裏切るの?クリス、あなた一度ならず二度までも、しかもこんな形であたしを裏切るというの?ガイ、あんたあれっぽっちのことでこんな風に私を裏切るっていうの?信じてたのに、信じてたのに。ベルもあたしを裏切った。ケフィは屋敷ごと破壊した。その屋敷も建築屋が裏切ってばかりで、仕事も依頼者の奴らがあたしを裏切る。何よ、何よ、そんなにあたしが悪いっていうの?みんなあたしのことが嫌いなのね。そんなにあたしが憎い?確かに薄暗い汚い仕事に手を染めてきたわよ。でも仕方ないじゃない?言霊使いってそういう仕事じゃない?あたしは言霊使いよ?古霊を信仰する敬虔な聖職者よ?そのあたしが人々の願いを叶えて何でここまで恨まれなくちゃならないのよ?全部あたしが悪かったというのね?みんなあたしを悪者にするのね?わかったわよ、懺悔すればいいんでしょう?あたしの人生は間違ってた。これでいい?」
 ミルドレッドの身体を恐ろしく冷たい血液が駆け巡った。全身の血が逆流するような感覚。もう、生きているのも辛い。何もかも捨てて逃げ出してしまいたい。そう、例えば、この世から。
 ミルドレッドは部屋を飛び出して駆け出した。ガイは慌ててそれを追う。
「ミルドレッド、落ち着け!誰もそこまでお前を追い詰めてない!!」
 クリスは面白くなってきたとばかりに喜々として追いかけた。ワンピースを頭からかぶり身支度を整えると、靴を履きながら駆け出す。
「予想以上の効果だわ!!ミルドレッド、いい感じに絶望してるじゃない。これは面白くなってきたわ!」
 ミルドレッドは屋上への階段を駆け上がった。階段の突き当りには鉄の扉に鍵がかかっている。
「封印の古霊クラウディティスよ、扉の封印を解け!」
 ミルドレッドの紡いだ言霊は扉の錠前を解除した。扉を開けて、屋上に飛び出すミルドレッド。
「まずい、あいつ何考えてるんだ。ミルドレッド!!待て!!」
 ミルドレッドは靴を脱ぐと、フェンスの金網をよじ登り、向こう側へ降りた。ビル風にあおられて体が飛ばされそうになる。だが、飛ばされてもかまわなかった。そのほうが思い切れて楽に死ねるだろう。
「ミルドレッド、落ち着け!!早まるな!誰もお前をそこまで追いつめてないぞ!」
「もう嫌なの!!!もう嫌なのよ!!!もう生きるのもうんざり!何もかも嫌!!みんなあたしが悪いっていうんでしょ?大人しく死んでやるわよ!!」
 クリスも追いついた。あの憎きミルドレッドがまさか身投げするとは、予想以上の効果だ。そのまま絶望の海に落ちて、命まで投げ出してしまえばいい。クリスは今か今かとワクワクしてきた。
 困ったのはガイだ。まさかミルドレッドがそこまで追いつめられているとは想像もつかなかった。イライラしているのは、時間が経てば直るものとばかり考えていたのに。
「ミルドレッド、落ち着け。話せばわかる。な?お前さん殺しても死なない自信だけは一流だったじゃないかよ。生きようぜ。時間が解決する。俺も協力するから。今朝は悪かったよ。俺が悪かったんだ。な?考え直せ?」
「貴方は悪くないわよ。あたしが悪いの。恨まれても仕方ないやつなの、あたしは」
 ガイがミルドレッドを刺激しないようにゆっくり近づく。しかし、ミルドレッドの意志は固かった。
「来ないで!死なせて!」
「早まるなって。な?」
 すると、マンションの下の道に人が集まってきた。
「おい、身投げだ。危ないぞ、警察に電話しろ!」
「早まるな!今警察呼ぶぞ!落ち着け!」
 ミルドレッドは舌打ちした。もたもたしているうちに死ににくくなってしまった。ミルドレッドはフェンスを伝い、人だかりのない道へ移動した。
「ミルドレッド。人が集まってきてる。みんな応援してるぞ。考え直せ」
「来ないで!」
 ミルドレッドの移動に合わせて人だかりも移動する。鬱陶しい。人がいたら巻き添えを食って余計な人まで死ぬじゃない。
 そうこうしているうちに警察と野次馬が屋上に駆け上がってきた。
「お嬢さん!早まるな!生きていればいいことがある!」
「無いから死のうとしてんでしょうが……!」
 その警察の説得がミルドレッドのためらいを刺激してしまった。
「放っておいて!巻き添え食っても知らない!あたしは死ぬ!」
 ミルドレッドが後ろ手に掴んでいたフェンスの金網から手を離した。その時。
「分かった!ミルドレッド!結婚しよう!!」
「え?」
 ミルドレッドは驚いて再びフェンスにしがみついた。突然のプロポーズ。このタイミングで?
「ミルドレッド、すまん、まだ指輪の準備はしてない。だが、お前が生きるというなら俺と結婚しよう。もう浮気なんかしない。一生お前さんを支える。約束だ。だから、死なないでくれ」
 クリスも警察も野次馬も、そしてミルドレッドも、吃驚仰天である。しかし、屋上にいた野次馬がそれに続けた。
「そうだ!!このお兄さんもそういってるじゃないか!生きてればいいことある!!生きろ!!帰って来い!!」
 その声に触発されて警察も他の野次馬もガイとミルドレッドを応援した。こんなに沢山の人に、生きることを応援されている。それはミルドレッドの絶望に凍り付いた心を溶かした。
 クリスの言霊は、「ミルドレッドが人生を悔やみ、己の罪を懺悔して絶望の海に落ちるように」祈っていた。「絶望的な運命」ではあったが、決して「不幸な最期」を願ったわけではなかった。結果的に不幸な最期が訪れればいいと計算していたが、紡がれた言霊は、あくまで「絶望的な」運命である。
 とある伝承に、絶望の詰まった箱があったという。ある時その箱を開けたものがいた。すると、箱の中からあらゆる絶望が飛び出し、世界は絶望に包まれた。しかし、箱の奥底に一つの小さな光があった。それは希望だった。
 絶望とは、たった一筋の希望があれば、状況を好転することができる。希望を失わなければ、どんなに絶望的な運命でも、道は拓けるのである。この場合は、ガイがミルドレッドの唯一の希望だった。ファトゥムのもたらした絶望を、ガイの変わらぬ愛が打ち破ったと云えよう。
「ガイ……。あたしと、こんなあたしと、結婚してくれるの?」
「ああ。愛してるよ、ミルドレッド。昔から、ずっとな」
「解った……。結婚して。あんたとなら、生きる」
 ギャラリーがわあっと歓声を上げた。皆が二人を祝福した。ミルドレッドはフェンスをよじ登り、ガイの胸に飛び込んだ。
「ミルドレッド。ひやひやさせんなよ」
「愛してる。ガイ」
 ばつが悪くなったクリスはそそくさと逃げ出した。こんな時に言霊を盛大に失敗してしまった。やはりミルドレッドが絡むとクリスは言霊を上手く扱えないと痛感する。
「何よ。何よあれ。私があいつを幸せにする手伝いしたみたいじゃない!」
 クリスは深夜も営業している酒場に入ると、朝まで浴びるように酒を飲んだ。
「覚えてらっしゃいミルドレッド!!いつか絶対もっと不幸にしてやる!!」

 その後はとんとん拍子に工事が進み、天候にも恵まれ、何のアクシデントもなく屋敷が完成した。
「ミルドレッド様、これが新しいお屋敷なんですね!素敵です!!」
「わあー!!新築のいい匂い!!あたしどこの部屋にしようかなあ!!」
 エラとニナが奪い合うように部屋を見て回る。今度の屋敷は、ケフィとガイの同居にも配慮している。
「どう?気に入った?」
「勿論!!」
 弟子たちが口を揃えて答えた。そして、新居の初めての夜、盛大にパーティーを行った。新築祝いと、ガイとミルドレッドの婚約祝いだ。
「ミルドレッド様、ガイさん、ご婚約おめでとうございます!!」
「ありがとう。近いうちに記者会見しなくちゃね」
 すると、耳敏いニナが掴んだ情報を教えた。
「そういえばテンパランス様もご婚約されたそうですよ。明後日、記者会見するとか」
「えー?ほんとに?クッ、先を越されたわ。ガイ!明々後日に会場押さえて!!」
「イエス、マ・ム!明日早速準備してくるぜ!」
 ミルドレッドとガイは、最大のライバルであるテンパランスとアルシャインの婚約会見に、大きな花束を持って駆け付けた。

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